2012年10月8日月曜日

*読書メモ:文明と戦争(下)~その1

・馬兵は歩兵に比べて、例外なく最低でも2倍、最高では15倍の土地を所有及び分配されていた。古代アテネのソロンの改革で定められた階級制度では、馬兵は、重装歩兵の主力を担っていた一対の牛を所有する豊かな農民の2倍の土地を分配されていた。ローマ共和制末期の国勢調査による収入額では歩兵の10倍。ビザンティウムでは、騎兵は歩兵の4倍以上の土地が分配されていた(なお、特別重装騎兵の場合は16倍)。百年戦争直前のイングランドでは、騎士は弓兵の5倍の土地を得ていた。

・鐙の影響は過大評価され過ぎている。馬と古代ローマ帝国の滅亡はあまり関係がない。また、鐙とローマ帝国の滅亡は完全に無関係(鐙の普及は500年以降)。アドリアノープルの戦いがローマ帝国の滅亡に繋がったという通説も、少々大げさ。というか古代における多くの会戦は、この会戦と同じような「鎚と金床戦術」で決せられていた。ゴート人は多くの騎馬兵力を持っていたが、最終的に西ローマ帝国を解体したゲルマン諸族の大多数は歩兵戦士だった。

・暴力による死亡率は、国家の成長と「戦い」から「戦争」への移行に伴って顕著に低下した。国家が国内で平和を押し付けることに成功したことが、おそらくは暴力による死亡率が低下したことの主要な原因だろう。

・また、直感に反することではあるが、国家の拡大により文民が戦闘に晒されなくなり、成人男性の従軍率が低下したことも、暴力による死亡率低下の大きな要因に挙げられる。国家間の戦争が破局的になった際の男性の死亡率は25%程度だが、この比率は、小規模で細分化された社会(原始社会)では、絶え間ない集団内部及び集団間での暴力で当然に生じるものとして記録されている数値だ。

・「軍事革命」という言葉を生み出したマイケル・ロバーツは、軍事革命の重要な局面を1560~1660年までの100年間とした。しかし、実際には幾世紀に渡って進んだものだろう。ジェフリー・パーカー曰く、「1530~1710年の間に、ヨーロッパ主要国家から給料を払われる軍隊の総数は10倍になり、ヨーロッパで起きた主な戦闘に従事した軍隊の総数もまた10倍となった」 この時期、ヨーロッパ全体の人口は50%しか増えていない。

・パーカーは、新しい大型要塞の建設は、金銭的な負担が極めて大きかったと主張する。しかし、ヨーロッパ全域における多様な事例から得られる統計データは、要塞は軍事費総額のかなり小さな割合を占めていたに過ぎないことを、一貫して明らかにしている。

・ヴェネツィアでは、イタリアと海外領を強固に要塞化したが、これにかかった費用は16~17世紀初頭の軍事費総額のうち5~10%に過ぎなかった。スペインについてのデータも同様。フランスでは、ヴォーバンが洗練されかつ費用の嵩む要塞建設事業を推進していたが、それでも最高額を記録した年(1682~83年)でさえ、軍事費総額の17%に過ぎなかった。平均的年間支出は17世紀を通じて遥かに少なかった。なお、大砲が登場する前の古い要塞も、大砲時代の新しい要塞も、その建設費はさして変わらない。おおよそ軍事費総額の10%が相場。

・大砲と砲弾に掛かる費用も同じ。ヨーロッパ各国の総軍事費に対して要塞が占めるのと同じくらい、一貫して控え目な割合で、おおよそ4~8%であったことが明らかになっている。携帯型の小火器も、非常に高価だった鋼鉄製武器やクロスボウと比べて、桁違いに高価なわけでもなかった。

・これらのデータからいえることは、地方貴族の独立権力は、彼らの城砦を破壊した攻城砲、または新式要塞への改装費用、大砲や小火器の維持費のために没落したわけではない――ということだ。地方貴族も都市国家も、大砲を入手し、要塞を作っていたのだ。なぜ、没落したのかといえば、官僚的財政に依拠する新しく大規模な国民的・領域的国家に立ち向かうには小さすぎたということ。

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