2012年1月13日金曜日

<野球本メモ>「ジャジャ馬一代」、青田昇:その2

――以下、第十二章、第十三章より

「継投策というものを、日本で本格的に意識的に使いだしたのは、僕は南海の鶴岡監督だったと思っている」
「例のディマジオ、フェインらの全米選抜軍が二十六年に来日したとき、鶴岡さんは、全パ軍を率いて、たった一回、全米軍を破っている。これが日本チームがメジャーから初めて勝星を挙げた歴史的な一勝なのだが、この時、鶴岡さんの使った戦法が継投策だった」
「相手が先発投手に馴れる前に、打たれなくても投手を代える。次々と四人の投手を繰り出して、強打全米チームを1点に封じてしまった。これに味をしめたツルさん、ペナントレースでも、しばしばこの手を使うようになった」(240頁)

阪急コーチ時代に在籍していたダリル・スペンサー。彼こそが来日外国人選手のナンバーワンだ。数字では彼以上の成績を上げたものも多いが、彼ほど野球を知っている選手はいなかった。“野球博士”である彼から、西本幸雄監督も青田も“考える野球”を学んだ。昨今、「野村ID野球」がもてはやされているが、野村がそんなことを言い出したのも、阪急との対戦での苦い経験がベースとなっている。

「スペンサーが、相手投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力は、まことに凄いものがあった。実を言えば、この僕も、長年のプロ野球経験で、その方面では人後に落ちないという自負を持っていたのだが、スペンサーの眼力は、それ以上だった」
(中略)
「阪急というチームは、僕が行った当時、すでにビデオ機器を持っていた。ビデオといっても現在のような精巧なものではないが、小型の撮影機で他球団の全投手を撮る。特にランナーが出たときのものを映して、これを全選手に見せる」
「一人ずつ仮想ランナーとなって、投手がホームに投げると思ったら『ゴー』。牽制がくると思ったら『バック』と声を出させる。これで相手のクセを頭に叩き込んで、スタートをいつ切れるかの訓練をやった」
「当時、こんな訓練をやっていたのは阪急以外にない。こういう伝統があったからこそ、後年、福本豊という盗塁の神様が出現したのだ」(262~263頁)

「西本さんと僕とは、よくスペンサーと話合ったものだ。例えば当時、近鉄に久保征弘という落ちる球を得意とする投手がいて、阪急の打者は手こずっていた。この落ちる球はほとんど低めからボールになる。それに手を出さないことだという結論が出た。その時デーがいった」
「『低めに手を出すなと選手に教えない方がいい。そうすると、打者の視線はどうしても低めの球に行ってしまう。それより高めの球に的をしぼって打てと教えるべきだ』」
「選手の心理学にも通暁した男だった。ニシさんと当時のことを語り合うとき、『お互いにスペンサーからは、いろんなことを教わったなあ』という言葉が出る。僕がこの男こそ“来日外国人選手中のナンバーワン”という意味が、これでいささか理解していただけたかと思う」(263~264頁)

――いわゆるデータ野球の基礎を作ったのは、ダリル・スペンサーとドン・ブレイザーの二人の外国人だったといえるのだろう。彼ら2人の影響に加え、それより少し前に川上哲治が牧野茂を通して“輸入”した「ドジャースの戦法」こそが、日本プロ野球のレベルを格段に引き上げるけん引役になったといっていい。このようにメジャーリーグからの技術、戦術、戦略の“輸入”は、60年代に活発化したあと落ち着きを見せる。70年代以降の日本プロ野球は、スパイ野球の洗練化や犠牲バントの多用といった形で独自進化を遂げることになる。

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