2011年6月22日水曜日

*読書メモ:家康はなぜ江戸を選んだか

・「南伊勢系土鍋」という出土品は、扁平型でへりが外に向かって独特の折り返しをしている特徴的なもの。この土鍋は南伊勢地方でしか生産されなかったが、東海沿岸はもちろん関東内陸部の中世遺跡からも出土している。ほんの数年前(1990年代半ば)まで、このような土鍋が出土すると、弥生式土器の一部などと思われていた。

・南関東における「南伊勢系土鍋」の出土分布を見ると、ほとんどが荒川・中川流域となっている。河川交通を通して関東内陸部へ入っていったのだ。関東地方における伊勢神宮領荘園の分布も、これらの河川にそって点在していた。

・では、これらの河川交通の入り口はどこだったのか? 北条氏照の通行許可証や尭雅僧正の下向記録によれば、利根川河口の終起点としては品川、葛西。利根川と常陸川をつなぐ結節点としては栗橋、関宿が使われていたようだ。しかし、品川についていえば、利根川河口部と考えるには距離が離れすぎている。

・実際には、品川から隅田川へ入っていくための何らかの港湾施設が別に必要だったのではないか? それが「日比谷入り江」という絶好の停泊地を持つ、中世の「江戸」という港湾都市だったと考えられる。

・江戸の初出は『吾妻鏡』。平家方の武将として畠山重忠と並んで出てくる「江戸重長」が初見例。彼の名字は拠点からつけられたと思われるので、この頃には江戸という地名が存在していたと考えられる。

・江戸重長は『義経記』曰く「江戸、浅草を支配下に置き、東国と西国の間を往来する数千艘の船を駆使する八カ国の大福長者」。武将であり港湾商人でもあったのだろう。『義経記』は後世の軍記物であり、それ自体信頼できるものではない。しかし、少なくとも同書が成立した室町時代における江戸が、このような伝説と違和感がないほど商業的に発達していたことは確実だろう。

・伊勢から品川へとたどり着く「太平洋海運」と、浅草・葛西から銚子、関宿、栗橋へと通じていた「利根川・常陸川水系」を相互に結びつける江戸の位置づけは、平安時代から中世を通じて重要であり続けた。中世を通じて東国水上交通の要衝だった江戸を、家康が選んだのは当然の選択だった。

・ではなぜ、家康以前の東国政権は江戸を選ばなかったのだろうか? その理由は、中世関東に根強く存在した「南関東と北関東の構造的な対立」にあったのではないか?

・中世の利根川より北東に位置する東上野・下野・常陸・下総・上総・安房といった「A地域(大雑把に言えば北関東)」。その南西に位置する上野・武蔵・相模・伊豆といった「B地域(大雑把に言えば南関東)」は、その対立の主人公を次々と交替させつつ、中世を通じて対立し続けていた。

・江戸はA地域とB地域の真っ只中に位置しており、その対立関係があればこそ、頼朝以来の中世関東政権は江戸を政権所在地に選ばなかった。

・佐藤博信の『東国大名の研究』(吉川弘文館)によれば、「概して独立の気風が強く、惣領制というヒエラルキーの強い縦社会を構成していたA地域」と「どちらかというと中央政府に従順で、一揆というフラットな関係で結びついていたB地域」の中小国人層が、利根川を挟んで対峙するという体質的な敵対関係が「中世東国史を規定してきた」という。

・実際、頼朝はB地域の武士団を政権基盤として出発し、A地域の武士団を味方によりこんで政権を強化した。しかし、平家追討直後に上総介広常を暗殺させたように、A地域の御家人は信用していなかった。結局、鎌倉幕府は足利氏(下野)、新田氏(東上野)というB地域の国人層によって滅ぼされた。

・室町幕府は、鎌倉府(鎌倉公方)を置いて東国を支配した。これを補佐するのが関東管領。関東管領は公方の監視役でもあり、その任命権は幕府にあった。結果、関東管領は幕府について、公方と対立することになった。鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害、幕府の追討を受け、下総国古河に逃れて「古河公方」を称してからは、この対立構造は明確になった。この騒乱(享徳の乱)の勢力図は、利根川を境に南西と北東(=B地域とA地域)に明確に分かれていた。

・この内乱のさなか、関東管領の重臣として活躍したのが大田道灌。彼が築いた江戸城はB地域の最前線にあった。すなわちA地域の勢力圏に面した出先機関であり、関東地方の中心となるような条件は備えてなかった。政権所在地は鎌倉にあったのだ。この構図は、伊豆・相模・武蔵を攻略し、江戸城を落城させた時期の後北条政権にも、ほぼそのまま受け継がれた。だからこそ後北条氏は、政権所在地を小田原に置いたのだ。

・これまで中世の江戸は、家康が入るまで小さな漁村であったとされていた。いわゆる「荒れ果てた葦原」伝説である。これは、家康の神格性を高めるために創り出された伝説に過ぎない。平安時代の昔から東西海運、東日本水運の要衝として大いに賑わっていたのだ。

――著者の『源氏と日本国王』がとても面白かったので、前著を読んでみたら、これが大当たり。恥ずかしながら「江戸葦原伝説」を信じていたクチだったので、既成概念を打ち砕かれる快感を味わいながら読んだ。「なぜ、家康は源氏に改姓したのか?」「そもそもどうして新田氏の後継を自称したのか?」という謎にも回答していて、その結論にも全然同意。良書。

0 件のコメント:

コメントを投稿