2011年1月13日木曜日

『食堂かたつむり』に言いたいこと:その5(感想)

その3、その4での突っ込みは、現代日本を舞台とした小説である場合、明らかに事実とは違うと思われる描写です。このほかにも突っ込みどころは多数あります。小さいところでは「ココアの作り方」や「コーヒー好きの客を判別する方法」であり、大きなところでは「開業資金」や「料理の価格」「月商規模」などです。ただ、こうした突っ込みどころについては、一応、作品内で何らかの説明をしているか、明らかに事実に反していると断言できないか、手前の知識不足で突っ込み切れなかったモノなので、敢えてスルーしています。

「調理・食品」「その他」についての突っ込みどころは、本来であれば編集者が校正段階で手直しする部分であり、多くの点でストーリー全体に影響する部分ではありません。「セニョリータ=シニョリータ」などは「ディアナ=ジアナ」とかでもいいわけですし。よって、こうした突っ込みどころの多さをもって、この作品はヒドい、けしからん! というつもりはありません。無知、間違いは誰にでもあるわけですから。

と、ここまで作品の根幹に関わらない突っ込みどころを整理したうえで、手前の感想を申し上げたいと思います。

一言でいえば、「極めて不道徳かつ不健康な読み物」。もちろん、この本以上に不道徳で不健康な読み物は掃いて捨てるほどあるわけですが、著者が自らの思想信条の正しさに一片の疑いも抱いていないままに書いている分、不道徳さと不健康さが際立っていると思います。

作中の主人公は、文字通り無謬の存在です。それはもう金正日も真っ青ってレベルで。なにしろマンションの大家から隣人、肉親、客といった人間だけでなく、ペットの豚、うさぎ、気ままに空を飛ぶドバトから桜の木までが、主人公の喜びと人生に彩りをつけるためだけに無償で奉仕するわけですから。

ちょっと過剰書きにしてみましょうか。

・熊さん:見返りなしに電動三輪車(恐らく十数万円相当)を提供するだけでなく、1カ月に及ぶ開店準備(大工仕事など)を毎日手伝い、顧客を紹介し、原材料買い付けのため車を走らせる。てか、人口5000人未満の村の学校における用務員って、そんなにヒマで稼げる仕事なのか?
・おかん:店舗となる物件を無償提供するとともに開店資金を貸し、主人公の店が軌道に乗ったところでがんに罹患。そろそろ愁嘆場が欲しくなった頃に死ぬとともに、結果的に、開店資金を無償提供する。
・ペットの豚:主人公が不安でいるあいだは癒しの存在として適度にわがままな振る舞いをするも、そろそろ愁嘆場が欲しくなった頃に唯々諾々と殺されるとともに、パーティの彩り&母親の死後の引き出物に変身する。
・ドバト:「いのちの食べ方」を伝えるべく、主人公にグリルされて食べられるためだけに、唐突に食堂の窓に激突死する。

んなアホな! と思われるかも知れませんが、誇張ゼロ。全部本当なんだって!

こうしたイベントが全て「ひょんなことから」起きたことであれば単なるご都合主義で消化することもできるわけですが、この本のいやらしいところは全ての事象に手前勝手な理屈をつけて正当化することなんですね。その究極形がペットの豚であるエルメスを屠殺するときの屁理屈です。

「エルメスは、すべてを知っていた。知っている、というか、あらゆることを悟っていた。自分の運命はもちろんのこと、おかんの病魔や、私とおかんの確執や、そして私の胸でうごめいている、言葉に言い尽くせない複雑なありとあらゆる感情を」
「私はしゃがみ込み、エルメスと視線を合わせて、エルメスの目をじっくりと見つめた。おばあさんというよりも、賢く思慮深いおじいさんのような顔。高くなった太陽の日差しに、白いまつげが光っている。まゆげは長く、仙人みたいだった」(215頁)

豚がしゃべれないことをいいことに、勝手なことをいいくさりやがって! みすみす殺されることを良しとする動物がどこにいるのか? 殺されたくないと思っているモノを、自らのエゴで容赦なく殺して食べるからこそ、命に感謝するって考えが出てくるんじゃないのか?――この一文を読んだときには、心の鶏冠が真っ赤っ赤になったもんです。

あとSEXの扱い。多分、主人公は処女です。え? インド人の恋人と同棲していたじゃないかって? だって、同棲中の描写なんてこんなもんですよ。

「苦労してやっと借りたこの部屋で、夜は同じふとんに手を繋いで並んで寝た。インド人の恋人の肌からは、いつも香ばしいスパイスの匂いがした」(7頁)

そりゃ手を繋いでというのは暗喩であって、その後、猿みたいにやりまくっていたであろうことは読者の方で察しろってことじゃないかって?(下品なこと書いてスイマセン) いや、そんなお上品な作品でもないんすよ。

「相手を選ぶようじゃ、プロじゃねー。お嬢ちゃんのオママゴト、独りよがりのオマンコショーや」(189頁)

なんて品性のかけらもないセリフが結構随所に出てくるんすから(いやホント、下品なとこを紹介してスイマセン)。この品のなさを基準に置くと、インド人の恋人とのあいだで男女関係になっていれば、その描写はキッチリあってもおかしくないわけです。それでも敢えて「手を繋いだ」「肌の匂い」という描写に止めているということは、インド人の恋人とやるときは結婚後であって、婚前交渉なんて罪作りなことはいたしません! という著者の純潔思想がベースにあるといえます。でなければ、わざわざ主人公を不倫の子であるらしいことを匂わせた後、実は処女懐胎で生まれた“穢れなき子”であるなんて狂ったドラマを作ったりしないでしょう。こういう描き方が世の私生児をどれだけ蔑むことになるのか? 著者はちょっとでも考えたことがあるんでしょうかね。

ていうか、そもそもおかんが精子を集めるとき、ゆきずりの男を誘ったってことってことになっているわけですが、そんなことしたら即ハメられるに決まってるじゃないですか! でも、この世界ではこうした現実的なことは一切起こらないわけですよ。

このように、全ての存在が自分のために存在する世界……ズバリ、「夢の中」で女王として生きているからなんでしょう。お金、葬式、病院、父親、兄弟、親戚といった“面倒くさい”モノは最初から存在しないことになっていて、登場人物も全て対等な他人ではなく女王に仕える下僕でしかありません。実際、自分の祖母のような年齢の女性を「お妾さん」呼ばわりして、メシを食べさせるためだけに面接(来店まえに、往年の小沢一郎みたく自分の店に呼びつける!)したり、痴呆老人と畜生を同じレベルで語ったり、ほぼ毎日無償で手伝いに来る熊さんに「混浴の共同浴場に一緒に入る」(失敗したユーリズミックスみたいな女と混浴して何がうれしいものか!)という報酬を与えることで、全部チャラにさせたりしているわけですから。で、こうしたプリミティブな差別意識を著者が全く意識していないところが怖いわけですよ。

現実には「中卒でバイト歴10年の行き遅れ女」でしかない主人公が、この過酷な現実から逃れるべく、本当の自分(笑)を見つけるために自分探し(笑)をするっていうハナシであれば、物語に対して意識的であるという一点で全然OK――オタク向けのライトノベルなんてほとんどこんな感じでしょう――です。でもねぇ、最初から夢の中に耽溺して、何一つ努力することなく「特別な料理の才能を持つ料理人」にクラスチェンジして、「民草に幸せを下賜する女王」に君臨するなんていう、クソ甘くて差別意識バリバリの肥大した自意識を257pに渡って読まされてもねぇ。まともな神経の持ち主であれば「怖ッ!」「キモッ!」ってなるもんじゃないでしょうかね?

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