2010年10月14日木曜日

<絶版兵頭本>紹介@『戦記が語る日本陸軍』(掲載コラム):その3

◆「烈風があったなら…」~戦後もっとも支持された虚構
・奥宮・堀越共著『零戦』が戦後の日本人に与えたインパクトはあまりに大きい。「日本はあれ以外に何をしようが結局アメリカには勝てなかったのか?」という素朴で根本的な疑念に、技術的に権威ある論拠を揃えて応えた随一の書だったから。

・堀越は「MK9A」エンジンを早く制式選定していれば、「烈風」がマリアナ海戦までに実用化されF6Fにも勝てた――という自画自賛を展開した。この神話は、初版から40年経った今日でも戦記小説などで再生産されている。

・内燃機関の機械工作上の困難は、大はピストン、小は排気弁や噴射ポンプなどが「高温高圧を封じ込めると同時に摺動する」ことを要求される点にある。このため接合部では緊度(プラスの公差)はあってならず、遊隙(マイナスの公差)は限りなくゼロに近くしなければならない。

・日本のエンジン工場では、熟練ヤスリ工が細工物のように手仕上げしていくために、高精度を求めるほど生産性と精度が低下していった。単能精密工作機械を並べ、婦女子を使いながら互換性のあるエンジン部品を大量生産していたアメリカとは、同日の談ではなかった。

・「MK9A」のような2000馬力級のエンジンは、それまでの公差数ミクロンから更に1~2桁精度を向上させる必要があった。これは熟練ヤスリ工でも無理な話。試製「MK9A」は、試運転と開放検査と研磨を繰り返してようやく完成したモノ。一方、昭和16年に完成していた「誉」エンジンは、「疾風」「紫電改」の量産が始まると開放検査を省略して大量生産された。

・2000馬力級エンジンの生産にあたって開放検査工程を省略するのは、ほとんど暴挙。「疾風」が実施部隊で調子が出なかったのも当然。結局、「MK9A」は8機の「烈風」試作機体のため2基しか作れなかった。大量生産などできるはずもなかったのだ。

・部品の製造公差を上げられない日本が、アメリカと航空戦争を戦うためには「火星」エンジンのようなシリンダー圧そのものは「栄」エンジンと大差ない大径大馬力エンジンか、致命的な摺動部品が少なく蒸気タービンと同じように開放検査を省略できる可能性があったターボジェットエンジンに賭けてみるしかなかっただろう。

・東京帝大から三菱重工に進んだ昭和の超技術エリートの堀越に、小卒の職工が油まみれになってヤスリをかけていた工場の実装など、まるで視野になかったとして怪しむに足りない。

◆旧軍航空隊が活躍する戦後マンガ
・「海軍パイロット=カッコイイ」というステレオタイプは、戦前には既に軍国少年のあいだで定着していた。優秀なパイロットは得難いため、海軍航空隊が陸軍や連合艦隊以上に広報を重視していたためだ。

・昭和10年代生まれの少年たちが戦後成人して作家になると、世相におもねりつつも自分の中でイメージ豊富な海軍航空隊を活躍させずにはいられなかった。彼らには陸軍航空隊の知識は「加藤隼戦闘隊」くらいしかなく。「陸軍=暗愚。連合艦隊=閉鎖的」という大衆側のイメージも定着していたため、カッコいいキャラを自在に展開できるのは海軍航空隊モノに限られていたという事情もあった。

・昭和27年に日本占領が終わると、貸本業界で絵物語という形で復古。60年安保闘争は保守サイドからの強い反発を招き、出版業界では戦争モノを大々的に取り上げるようになった。大手には検閲恐怖症が残っていたためか、最初に手がけたのは中小規模の秋田書店や少年画報社だった。

・貝塚ひろしの「ゼロ戦レッド」を皮切りに類似作品が頻出。辻はやとの「0戦はやと」は海軍航空隊モノの黄金パターンを確立した。つまり、単純なキャラの主人公が米軍相手に大暴れして、最後に唐突に特攻戦死することで「好戦的じゃありません」とPTA向けに挨拶するようなパターン。

・この黄金パターンからいち早く脱却したのは松本零士。主人公はコンプリケイテドなキャラでことに敵愾心が希薄に描かれる一方、メカの描写は正確・精密で、航空機や狙撃銃そのものがキャラクターの地位に昇格したようなもの。フィクションとしては邪道かも知れないが、これが左翼の攻撃から安全な戦争マンガ技法の一つの範となった。

◆日本の戦争映画が娯楽にならない理由
・南方に孤立している暴れ者揃いの航空隊に若い隊長がやってくる。最初は部下の反発を買うが、次第に統率を確立していく……というプロットは、旧軍航空隊を書いたマンガで必ずといっていいほど使われるパターン。

・そのルーツは日本の戦争映画にあり、さらに遡るとパクリ元である戦前のハリウッド映画にいきついてしまう。戦前に成人していた日本の映画人が、戦後、ハリウッド映画を参考にしないと娯楽作品が作れなかったのは、いささか情けない。

・しかも、ハリウッド製の戦争娯楽映画のテーマは「暴力」なのに、それを真似た日本の映画のテーマはなぜか「死」にすりかわっている。その理由は、戦史を自分なりに研究しようとせず、戦争のコンテクストや旧軍人の評価について自分なりの見解がないのに、戦後教育で「太平洋戦争史観」だけは脳移植されている日本の映画人が、よってたかって内容にチェックを入れたためだろう。GHQ恩賜の「太平洋戦争史観」を奉唱する限り、戦争フィクションのテーマは「死」にしかなりえないのだ。

・昭和56年の「連合艦隊」で、実名非難のタブーがなくなり南雲、栗田も愚将として描かれた。これがヒットしたことで、この時期、戦争映画の製作が相次いだ。しかし、表現上の制約(実名忌避など)がなくなっているにも関わらず、「死のテーマ」の反芻は相変わらずだった。日本の戦争映画は、昭和フタケタ生まれの貧乏漫画家たちの想像力を未だに超えられないでいる。

◆ 「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<1>
・米ソの大量報復核戦略は、小説の想像力を遥かに超えてしまった。核戦争のリアリズムが誰にも掴めぬまま『渚にて』のような悲観的なSFも書かれた。戦術核を駆使した近未来戦小説の書き手は、欧米でも育たなかった。

・ところが69年に中ソ核戦争の危機が過ぎ、相互確証破壊態勢を確立すると、核兵器は使えない兵器だという認識が広まる。結果、78年には『第三次世界大戦 1985年8月』が公刊される。

・同書は、核兵器が使えない状況を設定し、欧州における空陸の戦闘を通常兵器だけを使って展開させた点がミソ。これならば、軍人にもよくわからない核戦争のディテールを活写してみせる作業を避けられる。

・このコロンブスの卵に、日本の大衆ジャーナリズムが飛びついた。ソ連軍が佐渡島に橋頭堡を築き、新潟から東京を衝く、という荒唐無稽な軍事シミュレーション小説『ソ連軍日本上陸! 第三次世界大戦・日本篇』はこうして書かれた。

・こんな小説でも一般読者の軍事知識が皆無に近かったため、刺激性は十分あって中ヒットとなった。その後、矢継ぎ早に同工異曲の作品が数人の著者の手で上梓された。これらの作品はハケットの作品にディテールでも筆力でも及ばす、2年ほどで飽きられた。

・しかし、この「近未来戦」小説ブームの終わりとともに始まる80年代は、やがて来る「if戦記」ジャンル確立の下地が用意された10年でもあった。このあいだに、マニアックな資料がメディアから提供され、兵器・戦史オタクが増え、スケールモデラーが現れた。

・これらの震源地は『ホビー・ジャパン』。同誌の版元はヘックスで兵棋を動かすボードシミュレーションを輸入し、普及を図った。これらのゲームはPCに移植され、『大戦略』『信長の野望』を生む。

・ほとんどの戦史オタクは、二次~三次資料に依存し、自ら一次資料にトルク向きは全くなかった。しかし彼らは、伊藤正徳が定着させた単純な「海軍賛歌」史観からいち早く抜け出した。最新の二次~三次資料を踏まえていない安易な「if戦記」にそっぽを向くという点で、彼ら戦史オタクの存在も、兵器オタク同様に、「if戦記」の書き手をふるいわけする作用を果たした。

◆ 「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<2>
・71年、高木彬光は『連合艦隊ついに勝つ ミッドウェーからレイテ海戦まで』を上梓した。ストーリーは“戦史オタク”の雑誌記者が、日本艦隊の旗艦にタイムスリップし、“お告げ”によって海戦の結果を逆転させてしまうが、個々の海戦に勝っても大局は覆らず、主人公は歴史を変えることを諦める――というもの。

・「if戦記」の嚆矢だが、「タイムスリップした主人公に歴史を変えさせてはいけない」というオーソドックスなSFの約束事にとらわれていた。これは『戦国自衛隊』『ファイナル・カウントダウン』も同様。

・この“お約束”を打ち破って、同じ作家が架空戦記だけでメシが喰えるようにしたのが「パラレルワールド」という舶来概念の導入。試行錯誤の末にスタイルが確立され、ようやく「if戦記」は全盛を迎える。

・ブームの原因は単純。日本の大衆は、知れば知るほど先の大戦の経過に不満を募らせ、日本の映画やテレビがその憤懣を解消してくれないことにフラストレーションを鬱積させていたからだ。この「if戦記」ブームで強気になった版元は、現実世界の紛争に自衛隊が巻き込まれる「近未来戦」小説をも刊行し始めた。











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