2010年8月27日金曜日

*読書メモ:喧嘩両成敗の誕生

1501年、京都、東寺での事件。東寺領柳原に住む左衛門二郎が親敵として五郎三郎を殺した親敵討ちの処理について、東寺の多くの僧侶は「親敵討ちは正当」と考えていた。しかし、一部の僧侶は「殺人」を問題視した。親敵討ちは合法か違法か? 結局彼らは親敵討ちの正当、違法の判断を保留し、被害者、加害者の財産を差し押さえる決定を下した。

加害者、被害者双方に同程度の処罰を加えるというのは、ほとんど喧嘩両成敗“的”措置といっていい。もっとも、この判断は彼らの独創ではない。中世荘園の刑罰では、ときおり喧嘩の当事者双方を「法に任せ、両人の住屋を検符する」という措置がとられていたからだ。喧嘩両成敗法が明文化されるのは、これから25年後のこと。今川家の分国法「今川かな目録」に盛り込まれた。

相容れない二つの道理が相反することが頻出してしまったとき、<新たな常識>として受け入れられていったのが「双方を同罪にすること」であり、それが発展して喧嘩両成敗に繋がった。中世人が根強く持っていた衡平感覚(相殺主義。やられたぶんだけやりかえす)。これを発展させた結果、喧嘩両成敗や折衷の法(足して二で割る問題解決法)が<新たな常識>となった。

笠松宏至氏曰く、「中世人は何か揉め事が起きたとき、一方が全面的に正しく、他方が全面的に悪いとは必ずしも思っていなかった。争いになる以上、双方に何らかの正しさと落ち度があったに違いないという認識を共有していた」と。

両成敗的措置を採用した法の存在は、平安末期に遡れる。1184年7月の大和国内山永久寺定書に「一、もし当山の僧徒、口論・取合いたすほどの闘諍、出来あるのときは、是非の子細を論ずべからず、かの両人を早く山内より退却すべき事」という規定がみられる(131頁)。

喧嘩両成敗は唯一の紛争解決策でもなかった。湯起請やくじ引きなどもあった。双方の正当性が拮抗し、いずれの主張も甲乙つけがたいときに切望されただけで、当時から喧嘩両成敗の理不尽さにはある程度の自覚があった。

「今川かな目録」の喧嘩両成敗法の“条文”は、「①喧嘩をした者は、喧嘩の理由にかかわらず、(原則として)当事者双方をともに死罪とする。②(ただし)たとえ相手から攻撃されたとしても、我慢して、その結果、相手から傷つけられた場合は、もし傷つけられた側に喧嘩の原因があったとしても、その場で応戦しなかったことに免じて、(今川氏の法廷に訴え出れば、今川氏は)負傷した側を勝訴とする」(178~179頁)となっている。

つまり、喧嘩両成敗の徹底を目的としたのではなく、その後にくる「大名の裁判権のもとに服させる」ことを目的として施行した法律ということ。この大名の裁判権への誘導を目指し、その“導入部”として世間一般の<新たな常識>となっている喧嘩両成敗を取り入れたといっていい。

つまり、戦国大名が喧嘩両成敗法を施行したのは、従来の通説である「大名による強圧的な秩序形成策」というより、「大名による法の支配実現に向けた一里塚」とみるべきだろう。

江戸幕府は喧嘩両成敗法を採用しなかった。統一政権で全ての人間を法に服させることができたためだ。忠臣蔵があれほど熱烈に受け入れられたのは、喧嘩両成敗法のないなかで、民衆の衡平感覚(相殺主義)への憧憬があったためではないか?

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