2010年8月11日水曜日

川島堅、「野球肩・野球ひじを治す本」:その3

川島の投球フォームの解説は、ちょっと野球を知っている人間であれば大筋で知っているものだろう。しかし、<だいたい理解>していることと<完璧な理解>とのあいだには、超えがたい壁があるものだ。川島のように小学生高学年にも理解できるように「ケガをしにくい投球フォームの勘所」を書けるということは、間違いなく投球フォームのあり方について<完璧な理解>があるといえよう。

投球フォームに対する深い造詣は、高校時代に培われたもののようだ。

少年時代は良い体格を買われて捕手一本で続け、中学時代に投手と外野を兼任、投手一本で勝負したのが高校2年――という経歴を持つ川島は、投球フォームを自分の手でゼロから作り上げたという。

「高校2年生当時の私は、肩の強さをいいことに、ただ力まかせに投げていました。体をひねって打者に背中を向けるような投げ方をしていたのです。しかし、都大会を何試合も投げるうち、とくに3回戦、4回戦あたりからバテてきてしまいました。準々決勝、準決勝、そして決勝と進むと、さらにバテて、都大会が終わったことには、ほおがげっそりとこけていました」
「『バテないような投げ方をしなくては、甲子園ではもたない』。この考えが、フォームを変えるきっかけになったのです」
「投球フォームの改善は、甲子園から帰ってすぐに取りかかりました。監督は直接は何もいわないタイプだったので、自分でいろいろ考え、試しながらフォームを変えていきました。ひじを上げた下げた、ステップをどうしたなどという具体的な改善点は言葉では表現しにくいのですが、投げながら『こうするとらくだなぁ』『こうすると力を入れやすい』というよに徐々に変えていったのです」(173頁)

このようにして投球フォームを作り上げてきた川島が、プロ3年目にフォーム改造を決断したことには大きな葛藤があったのではないか? 2年目に結果が出ず、「コーチとも相談した結果、フォームを変えることにしたのです」「きれいすぎるフォームが相手の打者に威圧感を与えないとの理由で、苦労しながらフォームを変えていきました」(181頁)と大人の書き方をしているが、恐らくはコーチからの限りなく強要に近い薦めがあったのだろう。当時、スポーツ紙でこの話を知ったときには、「確かに現役時代、ギッコンバッタンと投げていた池谷なら、キレイなフォームの川島に嫉妬して弄りたくなったのかもなぁ」と下種な勘繰りをしたものだ。

ちなみに投手コーチとして超一流の実績を持っていた故宮田政典は、フォーム改造についてこのように書いている。

「小学生からプロ選手まで、すべてに通じる基本があるわけではない。投手の筋力、関節の強さを考えずに、投球フォームや投球術を教えてはならない」
「無理を強いることはもっともいけないことだ。正しい投げ方でも体力を考えずに強制すれば、必ず壊れてしまう。腕の筋肉は一度痛めたらなかなかもとのよい状態には戻らないから、それぞれが持っている筋肉は大事に使わなければならない」(『一流投手を育てる』146頁)

多くの投手コーチはこういったことをわきまえているものなのだろう。しかし、「あのコーチが2軍コーチになったら、若手がみんなサイドスローに改造されてた」といった笑うに笑えない話も少なからずあることを考えると、自分の方針を押し付けるコーチはプロの世界にも一定数いるものなのだろう。

といっても、川島がプロで大成できなかったのは、投手コーチのせいだと言いたいわけではない。

もし、川島に図抜けた実力があれば、2年目のオープン戦の勢いそのままにシーズンでも勝ち続けていたことだろう。そうなれば今ごろは、広島の20番が北別府学、34番が川口和久の番号であるように「広島の21番は川島の番号」と呼ばれるくらいには活躍していたはずだ。

「けがの防止」を切り口に身体構造からトレーニング、投球フォームまでを解説したものだけに、野球少年やコーチ、草野球プレイヤーにとってはバイブルになり得る本だが、それ以外のヌルい野球ファンにとっては読みどころの少ない本ともいえる。ただ、投球フォームの解説や、所々に挟み込まれる鋭い知見――例えば「遠投ができれば投球できる」という常識が間違っているという指摘。遠投ができることは、投球できるか否かの判断材料としても練習法としても間違いと説く。まず、短い距離で投げ始め、マウンドまで力強い投球ができるようになってから遠投すべきという――には、しばしば唸らされた。

投手にとって「理想の投球」をすることがどれだけ大変なことなのか? ヌルい野球ファンにとって同書は、それを理解する一助となるはずだ。

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