2010年6月26日土曜日

*読書メモ:「環境主義」は本当に正しいか?

保存し、保護すべき世界の最適な状況などは、あらかじめ定められているわけではない。環境主義者の自然に対する態度は、マルクス主義者の経済に対する態度とそっくり。どちらの目的も、自由で、自発的に進化していく世界を否定しているからだ。

中央集権的に世界を作り変えようとする試みは、ユートピア的(非現実的)なものだ。無理矢理実現しようとすれば、人々の自由は制限され、少数のエリートが圧倒的多数の人間に命令を下すという状況が必ず生まれてしまう。

1972年、ローマクラブが上梓した『成長の限界』では、人口爆弾、DDT、酸性雨、氷河の溶解、海面上昇、オゾン層聞き、温室効果による大災難の可能性が語られていた。しかし、これらのいくつかはすでに忘れ去られている。人間の自発的な取り組みによって、問題を効果的に解決してしまったからだ。

ローマクラブ自身も、1996年には「このように人々を意図的に誤解させたのは『公共の不安』を呼び起こすためだった」と白状している。このことは、環境主義者が「自分の目標を達成するために根拠のない、ごまかしの手段を利用した例」の最初でも最後でもない(*都築注:ニュースステーションの『所沢ダイオキシン騒動』は典型例)。

過去150年間、社会主義者は「人間を大切にしろ」「社会的平等を守れ」「社会福祉を充実させろ」といった人道的なスローガンを唱えていたが、結局、人間の自由を破壊してしまった。環境主義者も同じようなスローガンを唱えている。状況は今も昔も変わっていない。どちらも運動の目標は権力奪取しかない。彼らにとって問題なのは、一般大衆に対する『選ばれたもの』(すなわち自分のこと)の覇権、唯一の適切な世界観の押し付け、世界の改造だ。

1920年、アメリカに舗装道路があまりなかったとき、気候に関する最大の問題は“泥”だった。1920年時点で1995年までに国の道路のほとんどが舗装され、固くなっていると考えている人間は一人もいなかっただろう。今後予測される経済成長を想定すれば、100年後の世界はどうなっているか? 現在の技術水準と富の知識に基づいて、100年後の状況を考えるのは大きな誤りの元。

環境主義者は「予防原則」を絶対に誤りのない、当然のものとして利用している。この原則を盾に理屈に合わない最大限のリスク回避性向を擁護しようとしている。しかし、大切なのは、リスクを減らすにしても度を越してはいけないことだ。

経済学者は普通、予防原則が存在すること自体を承知していない。標準的な教科書にもこの原則について記述されることはない。経済学者は結果だけなく、あらゆる対象をコスト込みで考慮している。だから、効果ゼロではないからといって無謀な規制を押し付けることに反対しているのだ。代替案の効果とコストを議論し、機会費用――規制介入のせいで失われてしまう活動の成果――について考えている。

地球温暖化に対し、我々は何をすべきか? 答えは「特別なことは何もしない」だ。知識があり、合理的な何百万人もの人間が行動を結集したほうが、綿密な計画によって人間社会を発展させようとするよりは、遥かに良い結果が得られる。

環境主義者も結局、共産主義者と同じ末路を迎えることになるだろう。複雑なシステムは全て、無理矢理管理しようとしても必ず失敗に終わってしまう。「人間にとって最高の環境とは、自由が保障された環境のこと」(ウィリアム・C・デニス)。

だから、現在の地球温暖化に関する議論は、本質的には自由に関する議論なのだ。しかし、環境主義者は考えられる私たちの人生のあらゆる面を指導したがっている。環境保護には「賛成」だが、環境主義には「反対」ということだ。

感想:地球温暖化に対する手前のスタンスは「消極的懐疑派」といったところでしょうか。何せわかってないことが多すぎるからね。マクロの話でいえば温暖化が進みつつあることは事実なんでしょう。ただ、水星も金星も火星も木星も近年温暖化が進んでいることは事実であって、「地球温暖化は人類のせいだから、サッサとCO2を減らせ」という短絡的な議論には大いに疑問を持っています。この辺のもやもやした考えを、「環境主義? そりゃ新手の社会主義だって!」と喝破してくれた同書には、大いに蒙を啓かされました。つまるところNHKが地球温暖化危機を煽っていることの99%は間違っているけど、唯一、「パナシはなしってハナシです」だけは正しいってことだね。

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